はじめに閲覧されるべきもの

大切なことを書いたり、書かなかったりします。

Don’t be drag, just be a queen

仲間と向ヶ丘遊園へ


『あの人は英語が喋れて羨ましいなー。』
という言葉が、あまりしっくりこない。


『あの人は英語が喋れて羨ましいなー。自分は日本語しか喋れないからなー。』
という言葉も、やっぱりしっくりこない。


日本語が喋れると思ってる人でも『囂しい』という日本語が読めなかったりする。
この状態を日本語が喋れると呼んでもよいのだろうか?


勿論、ある人が言う『英語が喋れる』という状態が
『英語力のレベルがある一定水準以上の人』を指していることはわかる。


だけど
『あの人は英語が喋れて羨ましいなー。』
というレッテルは、まるでこの世の中に
『英語が喋れる人』と『英語が喋れない人』の
2種類だけが存在するかのような印象を生み出すことがある。


また、こういったレッテルが
『英語が喋れる状態』と『英語が喋れない状態』の
中間に存在する状態を我々の印象から消し去り
英語のCDを聞き流すだけである日突然英語がペラペラになるのでは
とおかしな誤解を生み出したりする。


大抵の物事には、白でも黒でもないグレーな状態が存在する。
そして、レッテルは事実を塗り替え、グレーの存在を無かったことにしようとする。


例えば、健康と病気の間にも段階的な症状が存在する。
ちょっと疲れ気味とか、やや風邪気味とか、だいぶ高熱とか。


例えば、世の中にある物質が必ずしも
人体に有害な物質と、無害な物質に分けられる訳ではない。
体に良いとされる物質は薬と呼ばれ
得てしてそれは人体にとって毒であったりする。


身体障害者、健常者という言い方もあんまり好きではない。
(勿論、社会保障制度上、分類の必要があるのはわかる。)


『四肢が欠損している』とか『脳に損傷が見られる』とか
いわゆる障害というのは、
究極的には『背が低い』とか『足が速い』とかと同じ
その人の個性であり、特徴だと思うのだ。


健常者と身体障害者との間に
明確なボーダーが存在するとは僕には到底思えない。


同時に黄色いTシャツのTVショーのような
身体障害者は他人の痛みが解るから全員心が綺麗』とか
そういった腫れ物に触るような扱いが
互いを幸福にするとも思えない。


健常者でも、身体障害者でも
黒人でも、白人でも、黄色人でも、混血でも
ヒスパニックでも、イタリア系でも
レバノン人でも、東洋人でも
ゲイでも、ストレートでも、バイセクシャルでも
レズビアンでも、トランスジェンダーでも関係ない。


Rejoice and love yourself today.
'Cause baby, you were born this way.


明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。